『ザクスピード・カプリターボ』トレンドセッターとなった衝撃のローフォルムマシン【忘れがたき銘車たち】

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By Auto News on Nov 30, 2022 at 4:25 PM
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     モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは欧州のシルエットフォーミュラレースを戦った『ザクスピード・カプリターボ』です。

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     日本でスカイライン、シルビア、ブルーバードの日産ターボ軍団が一世を風靡する6年前の1976年に、日本のスーパーシルエットレースがお手本としたシルエットフォーミュラによるレースがヨーロッパでスタートした。

     そもそもシルエットフォーミュラというのは1976年、FIAがスポーツカーレースの再復活を目的として新たに定めたグループ5という車両規定の通称である。『車両の横から光を当て投影したときに影(=シルエット)が市販車と一致していなければならない』ということが規定されていたものの、それ以外は比較的自由で改造範囲も広かった。だからこそベース車両のイメージを残した個性的なマシンたちがたくさん生まれたのだ。

     そんな規定を存分に利用して生まれたのが、今回紹介する『ザクスピード・カプリターボ』だ。ザクスピードは後にF1へも進出し、F1挑戦最終年の1989年にはヤマハエンジンとともに鈴木亜久里が搭乗したこともあるので、F1で名を聞いたという方も多いことだろう。

     ザクスピードは、そもそもツーリングカーレースで活躍していたドイツをベースにするフォード系のチームだった。このカプリ以前には、シルエットフォーミュラマシンで競われていたドイツレーシング選手権(DRM)をオリジナルマシンのフォード・エスコートで戦っていた。

     その後、1978年。この年のDRMに向けてヨーロッパフォードの支援も受けつつ、当時登場したばかりだったカプリMk.3をベースに新たなマシンの製作をスタートした。

     一番の特徴といえるボディは、ドイツ・ケルンにあるヨーロッパフォードで1/5クレイモデルを使った風洞実験を行って開発。その風洞実験の結果、この特にフロントが極端に低いフォルムのボディが誕生したのである。

     また搭載されるエンジンは、エスコート時代はNAだったもののザクスピード独自チューンのターボエンジンへと変更。当時、世界選手権やDRMは総排気量2.0リッター以上と以下とでクラス分けされていたのだが、総排気量2.0リッター以下のクラスであるディビジョンIIへの参戦を狙っていたため、1.4リッターターボというパッケージを選択していた。

     こうして誕生したザクスピード謹製のカプリターボは、1978年シーズン途中のホッケンハイム戦でデビュー。決勝ではエンジントラブルでリタイアしたが、いきなりクラスポールポジションを獲得する速さを見せた。

     そのボディフォルムだけでなく、ポテンシャルの高さでも周囲を驚かせたのだった。そしてその後、ニュルブルクリンク開催の同年最終戦では見事にポール・トゥ・ウインで初優勝を達成して見せた。

     翌1979年、カプリターボはさらなる飛躍を果たす。カプリターボ全体でシーズン8勝をマークし、そのなかでも6勝を挙げたハンス・ハイヤーがディビジョンⅡのクラスタイトルに輝いたのだった。

     1980年になるとディビジョンⅡに加え、排気量1745ccのターボエンジンを搭載したマシンを製作し、ディビジョンⅠへも本格的にエントリーを果たす。この年、ディビジョンⅠマシンを駆ったクラウス・ルドビクが同クラスでトップの得点を獲得したほか、並行して参戦したディビジョンⅡでは、カプリターボが最多勝をマークする強さを発揮した。

     しかし、そのディビジョンⅡでは、カプリターボに搭乗した複数のドライバーが勝利したため得点が分散。当時のDRMはディビジョンⅠ、ディビジョンⅡとそれぞれのクラスで獲得した総得点で総合王者を争っていたため、結果、DRM総合チャンピオンはディビジョンⅡで最多得点を獲得したランチアのハンス・ハイヤーに奪われてしまった。

     1981年は翌1982年よりグループCが始まったため、シルエットフォーミュラ期の実質最終年と言われる年。この年もカプリターボは両クラスに参戦したが、特にディビジョンⅡで無双。全10勝をマークしたほか、総合得点でもトップになり、最終年にしてオーバーオールチャンピオンに輝いたのだった。

     その後、カプリターボは1983年までグループCと混走しながらもDRMで戦い続けたが、その年をもって第一線から姿を消した。

     結果から見ればDRMにおいて総合タイトルを獲得したのは一度だったが、カプリターボを見て、シュニッツァーは“ローライン”と呼ばれるBMW 320iターボを開発したし、終盤期、世界選手権で絶対王者ポルシェ935と伍したランチア・ベータモンテカルロターボもカプリターボを徹底研究して生まれたマシンだった。

     ザクスピードのカプリターボとは、それだけ他のシルエットフォーミュラマシンたちに大きな影響を与えた1台だったのである。
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    1979年の世界メイクス選手権ニュルブルクリンクを戦ったザックスカラーのカプリターボ。クラウス・ニーツビーツとマリオ・ケッテラーがドライブした。

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